7月も後半で、すぐ8月が見えてきましたね。
まさに夏真っ盛りということで。
今回は、中原中也の詩「夏が来た」(1936)の魅力について、投稿します。
「夏が来た」は、中原中也の未完詩篇だそうです。
私はあまり詩に造詣が深くはない(文学は大好きです!)ですが、中原中也の「夏が来た」は大好きです。
「詩」と聞くと小難しそうなイメージがありますが、「夏が来た」は短く、シンプルな言葉で綴られていて、内容もわかりやすいです。
それでは、「夏が来た」の中でも私が特に好きな「漂泊」と「生活」の言葉に着目して詩の魅力を語ります。
目次
「漂泊」を愛す
僕はもう、都会なんぞに憧れはせぬ。
文化なんぞは知れたもの。
然し田舎も愛しはえせぬ、
僕が愛すは、漂泊だ!
引用:中原中也、吉田凞生編『中原中也詩集』新潮社、2000年、296ページ。
例えば、「都会に嫌気がさす」みたいな文言はありがちだと思うのですが、「都会に憧れないし、田舎も愛さない」という内容は読者の意表を突きますよね。
「僕が愛すは、漂泊だ!」が、特に文豪らしいなと思います。
「旅」ではなく、「漂泊」という表現が好きです。
「漂泊」は、同じ場所に居続けることが嫌だ!帰属意識など持つことなど無理だ!という意味合いなのでしょうか。
詩の中に出てくる「漂泊」は、物理的なものというより精神的なものを意味しているのではないか…と私は思います。
「生活」って素敵なもの?
「生活」か?
そんなものなぞあらうた思はぬ。
とんだ美事な美辞に過ぎまい。
どうせ理念もへちまもないのだ、
たゞたゞ卑猥があるばかり、
それとも気取りがあるばかり。
僕はもう十分倦き倦きしている!
夏が来た。
空を見ると
旅情が動く。
「生活」とやらが……聞いてあきれる。
引用:中原中也、吉田凞生編『中原中也詩集』新潮社、2000年、296-7ページ。
「生活」を「美事」「美辞」「卑猥」「気取り」と称しているところが、インパクトがあります。
「生活は大事だ」とか「丁寧な暮らし」とか「QOL」とか最近よく聞くじゃないですか。
「生活」と聞くと、あなたは何を思い浮かべますか?
寝る。起きる。顔を洗う。食事をする。排泄をする。皿洗いをする。歯を磨く。洗濯をする。服を着る。掃除をする。整理整頓をする。お風呂に入る。寝る。
私にとっては、これが生活です。この繰り返しが「生活」です。(少なからず私にとってはそうです。)
確かに大事なことです。毎日欠かせないことですし、特に睡眠と食事は生死に直結します。
しかし、私は「生活」ばかりにかまけているのはつまらないなと思います。
「生活」って動物の生理的欲求に基づく活動と家事の詰め合わせじゃないですか。
特に楽しいか、面白いか、好きかと聞かれたら、私はNOと即答します。
私は料理も皿洗いも洗濯も掃除も整理整頓も好きになれません。また、苦手です。
(「生活」の中で唯一好きなことは睡眠と入浴です…笑)
「生活」は、生きている限り続きます。(「生」という漢字が入っていますしね。)
朝も昼も夜も明日も1週間後も1か月後も1年後もつきまといます。終わりが見えません。呼吸が続く限り、実際終わりがありません。
また、達成感がありません。今日やっても明日も1週間後も中年になっても老人になっても同じことをずっとずっと繰り返すのか…と絶望に近い感覚を私は覚えます。
もしくは、絶望よりも虚無の方がより近い感覚もしれません。
とにかく停滞しているかのように感じやすいのです。
これは、「生活」を整えることが好きな人、家事が好きな人、事務作業が好きな人にはなかなか理解しがたい感覚なのかもしれません。(家事と事務作業は本質も内容も非常に似ているので、例に取り上げました。)
「生活」の終わりのなさ、達成感のなさ、つまらなさ、絶望、虚無感。
中原中也の「夏が来た」の「生活」は、これらの感情の全てを言いくるめているように私には感じられるのです。
とてもリアルな感情が短い詩で表現されています。そして、このリアルな感情全てが文学的だと思います。
まとめ 「夏が来た」は文学好きにはたまらない詩作
「夏が来た」は、文学が好きな人にはたまらない作品なのではないでしょうか。
「漂泊」への愛好と「生活」への停滞、絶望がリアルに描かれていると私は思います。
ぜひ中原中也の詩の世界に触れてみてください!