先日、トーベ・ヤンソン原作の小説『ムーミンパパの思い出』を読みました!
ムーミンパパは文学好きが親近感を抱くキャラクターだと思いました。
小説家というキャラ設定も相まってですかね。すごく共感するし、胸がグッとくるんですよ…ムーミンパパの台詞や考え方に。
今回は、小説『ムーミンパパの思い出』からみられるムーミンパパの文学的感性を分析します。
目次
小説『ムーミンパパの思い出』のあらすじ
小説『ムーミンパパの思い出』のあらすじをざっと書きます。
ムーミンパパが自身の若かりし頃の思い出を振り返り、思い出の記として書きます。ムーミンパパは息子のムーミン、ムーミンの友人であるスニフとスナフキンに思い出の記を読み聞かせます。
ムーミンみなしごホームで孤児として育ったムーミンパパは、ホームを抜け出し、仲間たちと出会います。フレドリクソン(スニフの父親のおじ)、ロッドユール(スニフの父親)、ヨクサル(スナフキンの父親)、ミムラのむすめ(ミムラねえさん)、ミムラ夫人(ミムラねえさん・ミイ・スナフキンの母親)…。
若きムーミンパパとムーミンの友人の親たちの冒険物語。
ムーミンパパの文学的感性
文学的感性①疑問は「自分との対話」
ムーミンパパは、ムーミンみなしごホームの前に捨てられた孤児でした。ムーミンみなしごホームを経営するヘムル族のヘムレンおばさんに、ムーミンパパは疑問に思ったことを聞きます。
「なぜこうなっているのですか。」「なぜ、ぼくはぼくであって、ぜんぜんべつのだれでもないの」(ヤンソン 25ページ)
しかし、ヘムレンおばさんはろくに説明をせず、はぐらかすばかり。
ムーミンパパ以外のみなしごホームの子どもたちは、特に疑問を思うことなく過ごしていました。それどころか、「なぜ?」と疑問を問いかけるムーミンパパを子どもたちもヘムレンおばさんも避けるようになります。周りの人たちとそりが合わないと感じた幼少期のムーミンパパは、以下の行動に移ります。
このようにして、わたし(ムーミンパパ)の子ども時代のはじめは、いつも心の中にうたがいを抱きながら、すぎていきました。わたしはふしぎに思うことを、じぶんでじぶんにきくほかになんにもすることがなかったのです。そして、どこで? いつ? だれが? なにを? という問いを、くりかえしていました。
ヤンソン、トーベ『ムーミンパパの思い出』小野寺百合子訳、講談社、2011年、28ページ。
※()は執筆者が追記。
文学が好きな人は、幼少期に疑問を感じることが多かったのではないでしょうか。
特に100人いたら90人は不思議にすら感じないことを「不思議なことだ」と感じるのです。
例えば、なぜ保育園に通わなければいけないの?なぜ学校に行って勉強しなければならないの?なぜ「みんな仲良く」なんて無理難題を先生は言うのだろう?
(どれも執筆者が幼少期に実際に疑問に思っていたことです。)
疑問に感じるのは、幼少期だけではないんですよね。むしろ年齢を重ねるに連れて他人から「考えてもどうしようもないよ」と言われるようなことを疑問に感じるようになるんですよね。
例えば、学校の行事って何のためにある?学歴は何のためにある?「働く」って何だろう?ワークライフバランスなんて本当にあるのか?「人間関係を上手くやる」とはどういうことだ?
(実際に私が思っていたことであり、現在進行形で疑問に思っていることです。)
わたしは、じぶんでじぶんの世界をつくりだすことを考えはじめたのです。わたしは、つめたいまわりのものには目もくれずに、もっとじぶん自身のことを考えるようになって、それをすばらしい仕事だと思うようになりました。わたしは質問するのをやめて、そのかわりに、じぶんがどう感じ、どう考えるかをしゃべるのが、おもしろくなりました。
ヤンソン、トーベ『ムーミンパパの思い出』小野寺百合子訳、講談社、2011年、29ページ。
自分の世界、自分がどう感じるか、自分がどう考えるか…
全てひっくるめるとすると、自分との対話ですよね。
自分との対話を通して、ムーミンパパの芸術的感性、文学感性が磨かれたのでしょうね。
逆を言うと、自分との対話を通さないと文学感性は磨かれないと私は思います。
文学的感性②生きることは「体験と思考によって自分のものにすること」
ムーミンみなしごホームを抜け出した後に、ムーミンパパはフレドリクソン・ロッドユール・ヨクサルの仲間たちと出会います。仲間たちと「海のオーケストラ号」と呼ばれる船で海を冒険します。
ヨクサル(息子のスナフキンと気質が似ていることもあって、厭世的です。)が舵取りに無関心でいる様子にムーミンパパは「ヨクサルがあまりにも無関心すぎないか?」とフレドリクソンに言います。
フレドリクソンは以下のようにムーミンパパへ返します。
ぼくたちは、いちばんたいせつなことしか考えていないんだなあ。きみ(ムーミンパパ)はなにかになりたがっている。ぼく(フレドリクソン)はなにかをつくりたいし、ぼくのおい(ロッドユール)は、なにかをほしがっている。それなのにヨクサルはただ生きようとしているんだ
ヤンソン、トーベ『ムーミンパパの思い出』小野寺百合子訳、講談社、2011年、132ページ。
※()は執筆者が追記。
フレドリクソンの台詞はすごく深いですよね。(文学的というより哲学的だと感じます。)
ただ「生きる」ことって並大抵のことじゃないと私は思います。
100人中99人はフレドリクソンやムーミンパパたちのように「何者かになりたい」「何かを作りたい」「何かが欲しい」と望むばかりで、「生きよう」と思ってはいないのでしょう。
「生きたい」「生きよう」と望みを持つのは、「何者かになりたい」「何かを作りたがっている」「何かが欲しい」と望むよりも難しいことなのです。
しかし、ムーミンパパはフレドリクソンの台詞を受けて、以下のように考えるのです。
生きるということは、あたりまえのことです。わたしの見かたからすれば、わたしたちのまわりには、いつも重要で意義ぶかいものごとが、ごろごろしている。それを体験し、そのことについて考え、そうして、それをじぶんのものにしなければならない。
ヤンソン、トーベ『ムーミンパパの思い出』小野寺百合子訳、講談社、2011年、132ページ。
ムーミンパパにとって「生きることは体験し、考え、自分のものにすること」なのでしょうか。(執筆者はそう解釈しました。)
全編に渡って感じることなのですが、ムーミンパパは「考える」ことをものすごく重視しているようです。
「考える」ことに重きを置いていることも、文学的感性に必須の要素だと思います。
まとめ ムーミンパパは文学好きが親近感を覚えるキャラクター
ムーミンパパは文学好きが親近感を沸くキャラクターだと思います。
ムーミンパパだけでなくムーミンパパ以外のキャラクター(フレドリクソンやヨクサル)も哲学的な台詞を口にするので、『ムーミンパパの思い出』は総じて文学好きに刺さる作品なのではないでしょうか。
文学好きの皆様とムーミン好きの皆様にはおすすめの小説です!
(執筆者追記)
ものすごくどうでもいいことですが、ムーミンパパの働き方が執筆者の理想の働き方です!
ムーミンパパみたいに家の中で没頭して「ああでもない、こうでもない」と悩みながら、作り上げるような仕事がしてみたいな…なんて日々思っています(笑)